隔離ホテルに入った翌日の8月4日、館内アナウンスで目が覚めた。朝食の配布を終えたという日本語と英語のアナウンスだった。お世辞にも上手とは言えない英語だったが、自動音声に頼らず頑張っているところに好感を持った。
ここはどんな場所にあるんだろう?
カーテンを開けると無機質な景色が広がっていた。窓を開けると車の騒音がひどかった。体に悪そうなのですぐに閉めた。
ギリシャで隔離になる可能性があったので、言葉が通じる日本で隔離されることに、さほどショックはなかった。この時点では普通の精神状態だった。
療養のためのホテルのはずなのに、ここで体調を崩したら誰にも助けてもらえないとは思わなかった。
ドアを開けると廊下の椅子の上にレジ袋に入った弁当があった。
弁当は和風の容器に入っていたが中身は洋食だった。パン、レタス、ベーコン、オムレツ、ジュースといった内容で普通だった。全体的に味が濃い。たった3枚のレタスにドレッシングが一袋付いてきた。
また館内アナウンスがあった。今度は朝の体調報告のお願い。こちらは医師が行うが、英語は原稿を読んでいるのではなさそうだった。医師は何人かが交代で勤務しているようだったが、どの先生もしっかり名前を名乗っていて感じが良かった。
体温やサチュレーション、自覚症状の報告をする。前日配られた書類にウエブへのアクセスができるQRコードがあった。ウェブでの報告ができなければ電話で良いと言われた。このフォームはシンプルだし、音声で読み上げることもできた。
報告フォームの入力には問題がなかったが、不安な点があった。
一つはサチュレーションという血中酸素飽和度を測るパルスオキシメーターの使い方がわかるかどうか。そして数字が読み取れるかどうか。
わたしはギリシャでの隔離を想定していたので、文字が大きな体温計を持っていた。パルスオキシメーターの購入も検討したが、自宅療養者が亡くなったことで、一時品薄になった。健康な人が買ってはならないと思い購入しなかった。
パルスオキシメーターはエレベーターの近くのワゴンの上に置いてあった。パルスオキシメーターのクリップがどちらが指を挟む方なのか、よくわからなかった。数字はなんとか読み取れた。しかし、わたしは黄斑変性があり、中心部に見えないところがあるので、数字の読み取りに不安がある。3、5、6、8、9は区別がつきにくい。
最初はパルスオキシメーターの上下がわからなかったので、写真の数値が86なのか98なのかがわからなかった。
電話してスタッフに来てもらおうか?
毎日2回、これだけのために感染エリアにスタッフを呼ぶのも悪いな。
ちょっと悩んだ。というか、昨日から主人が差し入れを持って来る件で何度か話していて、面倒そうに対応するおじさんと、これ以上話をしたくなかった。
そもそもこの数値について、正常値がいくつかを教えてもらっていない。プリントを幾度も見返したが、どこにも書いてない。
調べてみて96%以上が正常値だとわかった。90%を下回れば呼吸不全だとも書いてあった。自覚症状がないので98と報告することにした。
もう一つ困ったこと。それは唇の色が紫かどうかの確認。先天性の弱視なので、顔色をちゃんと見たことがない。iPadで自分の顔を撮影し、ネットの画像と比較しようと試みた。しかしネットの画像が化粧なのか病気の症状なのかよくわからなかった。
とりあえず唇が紫色かと言う質問に、いいえ、と回答。
とりあえず、朝のお勤めを終えたので配布書類を読んでみた。普通に見えても立派な視覚障害者。11種類の書類を読むのには時間とエネルギーがいる。
これは入所中のお願い。同じ内容のふりがな付きも渡された。
生活の手引きは5枚にも及んだ。印刷がかすれていたり、文字が潰れていたりで、イラストや写真はかなり読みにくかった。アンケートの提出時にテキストファイルやPDFなどデータでの資料提供を要望した。メールはないと言っていたので、視覚障害者も困るが、電話しか連絡手段がないので聴覚障害者も困るだろうな。
渡された書類を読んでいくうちに、わたしはだんだん不安になってきた。
●リネンの洗濯は自力で行うこと。リネンは週1回しかもらえない。
●洗濯は自力で行うこと。スタッフは依頼を受け付けない。
●食事は無理して食べる必要はない、食べられなかったら残して良い。
おそらく隔離とは無縁の状態の人や、管理をする立場の人は、この文章を読んで当然のことだと思うだろう。スタッフが感染リスクをできる限り避けるためには合理的な方法だから仕方がないと。
隔離されたわたしは、この文章を読んで衝撃を受けた。
今は無症状でなんでもできるが、具合が悪くて人の手が必要になればなるほど、悲惨な衛生環境と栄養状態で苦しまねばならないことを!
しかし、このホテルの良いところもあった。
差し入れやネットショッピングが許可されていること。
神奈川県の宿泊療養の案内を見つけたのだが、差し入れやネットショッピングは一切禁止されていた。同じ自治体でもホテルにより異なる場合もあるようだ。差し入れやネットショッピングまで制限しなくても良いのにと思う。管理が面倒だからだろうか?
差し入れにはとても救われた。家族や友人と会えない中、いくらオンラインがあっても不十分だ。
好きな食べ物や暇つぶしの本や手芸用品など、誰かが自分のことを思って選んで届けてくれることは心の支えになると思う。おそらく家族にとっても、会えなくてもできる、残された数少ない行為だと思う。
さらに書類を読み進めていくと、わたしはここで放置されて死ぬんじゃないかな、と思うようになっていった。惨めな気持ちだった。
読めば読むほど、規則やお願いばかり。しかし、療養施設側の医療の提供体制や、生活支援や精神面のサポートなどが、支援しますの一言で終わり。全く具体的には示されていない。
例えば、どの程度の発熱や酸素飽和度で病院に移してもらえるのかもわからない。カウンセラーなどの資格のある方がスタッフにいるのかとかも。
次に読んだストレスとの付き合い方を読んでさらに突き落とされたような気分になった。
これだけのストレスフルな環境に隔離をして、ストレレスも自分でなんとかしろと!
不安でたまらなくなったわたしは、午前10時過ぎに主治医のN先生にメールした。
N先生、実は成田空港検疫でコロナ陽性でホテル隔離となりました。無症状で元気ですが、2つ質問があります。
1つは唇の色が紫かどうか自分で確認して報告しなければならないのですが、自分で見てもよくわかりません。部屋に医師や看護師が診察に来ることはないのです。紫になるときには他の症状もありますよね?
もう1つは親への連絡について、わたしは糖尿病がありますから重症化しやすいですよね。親には言った方が良いでしょうか?病院に移ることになったらと考えていますが、話ができるうちに連絡をしておいたほうが良いでしょうか?
退所基準の書類に療養の目的と言う項目がある。
こんなの嘘だ!
隔離の目的の1番目の、あなたの体を守るため、と2番目の大切な人を守るためは順番が逆だ。と言うか1番はコロナに感染していない人々、つまり社会を守ること。大切な人は2番か3番だ。おそらく隔離ホテルの現状を知ったら、家族や友人は感染から守られたとしても複雑な心境になるだろう。
ハンセン病などに見るように、歴史において常に隔離とは、隔離された人の犠牲の上に成り立つ、外の人の利益のためのものだ。わたしはこの図を見ながら、頭で知っていることと、当事者となって感じることの差がどれほど大きいかを知った。
隔離が良くないとは言わない。高齢者が家庭内感染で亡くなったら家族はやりきれないだろう。しかし、もう少しサポートのある暖かさを感じる環境が必要だと感じた。
午前の診療が終わる午後1時ごろ、N先生から電話がかかってきた。
「今から往診だから時間があまり取れないけど質問に答えるね。俺もね、療養ホテルで勤務したことがあるんだよ。
ます、唇の色。チアノーゼだけが単独で起こることはまずないから、他の症状がなければ大丈夫だから。
それから、親には知らせなくていいと思うよ。死ぬ確率はすごく低いから。今元気なんだから、心配かけないほうがいい。」
ああ、なんてありがたい!本当に心配してくれる人。気持ちのこもった温かみのある言葉。
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